痩せようと思ったオタクの某食品への所感:
オートミールとかいう食い物がある。
だいたいダイエッターやらトレーニーのインスタグラム、あるいは少し昔の田舎の北欧が舞台の映画くらいでしか見ない、オーツ麦を平たく潰したり乾燥させたりしたものである。
最近体脂肪が気になり始めた私は、KALDIでそのオートミールというものを買ってきて食うことにした。
私が買ってきたオートミールは「スティールカットオーツ」という種族のもので、つぶつぶした外見が特徴であった。約100グラムを適当な椀に測り入れ、説明書の通り適量の水を入れふやかした。
予め用意しておいたじゃがいも抜きポトフを横に並べ、夕食の完成だ。
食品に対してするべきでない比喩をするため、オートミール(特にスティールカットオーツ)が好きな人、オートミールを頻繁に食べている人は以下の文章を読まないことをオススメする。
諸君は釣りに行くだろうか。
特に生餌を使った釣りだ。あの足がやたら多くて細長く、手で掴むと噛み付いてくるやつとかだ。
釣具屋で奴らを買う時、掴みやすいよう細かい木屑のようなものを入れる。
だんだん奴らのヌメリを木くずが吸収して、ぼってりと湿ってくる。
それに似てる。
(※画像割愛)
だから気持ち悪くて食えない!というわけではなく、ただただ「似てるな〜」と思いながらスプーンですくって口に運ぶだけだ。
もしオートミールが本当にイソメの汁を吸った木屑になっていても、私は気付かず口に運び続けるに違いない。そして「なんか今日はいつもと味が違った気がするなぁ」なんて思いつつシンクに椀をぶち込んで風呂に入るのだろう。
はたして、私は私の人生をどれだけ真剣に生きているのだろうか。
変わらない日々をただルーティンのように処理して気付いたら老体になっているのだろう。そもそも、「変わらない日々」なんていうのも自分がそう思っているだけなのだ。
『繰り返しなんか全然ない暮らしをしてるはずだぜハニー』と、あの有名バンドも歌っている。
それなのにだんだん人生の中で培われたオートパイロット機能に身を任せ、人生そのものを作業的に過ごし「歳をとると刺激なんて全然なくて時間が過ぎるのが早いよ〜」なんてボヤきながら死んでいくのだろう。
きっと釣具屋のイソメたちの方がよほど真剣に生きているはずだ。
同じパックに入れられたイソメの中でも奥へ奥へと潜り、自分たちを買った釣り人が釣りに飽きてパックを磯辺にひっくり返していってくれることを磯と干潟の神に祈るのだ。
逃げ果せたイソメたちは似た境遇のイソメたちで集まり子を為し、幾代もの長い時間をかけ、遠い彼らの先祖がいた干潟へと帰るのだ。
川の水東海の水が混じりあう河口付近は、底質が泥であることが多く、有機物も豊富に含まれる。
それは無数の命を育む、あたたかい泥
浅倉透は、どこか「世界そのものから疎外感」を感じていたのではないかと思えて仕方がなかった。
それは、たとえば自己認識と他己認識のズレからくるものであり、
また、自分のした行動に「手応え」のようなものを感じていないからだったり。
ピラミッドの形が有名な食物連鎖だが、あれは同時に環状でもある。
小さなものを大きなものが食べ、大きなものが死ねばやがてより小さなものがその亡骸を食べる。
そうやって命は繋がっていく。
浅倉透はずっと、そういう世界の「輪」のなかに加わりたかったんだと私は考えてしまった。
浅倉透は自分のことをミジンコと例え、ディレクターは浅倉透のことを捕食者と例えた。それぞれの認識は未だズレたままだった。
しかし、ミジンコの心臓を観察するシーンからも感じ取れるかもしれない(考えすぎかもしれない)が、
浅倉透は「自分も世界をつくる命のひとつなんだ」ということに気付けたんじゃないかと思う。
そしてそれは、浅倉透のこれからの人生を大きく動かすのに充分なアイデアだっただろう。
ずっと凪いでいた浅倉透の世界に、ミジンコが生まれ命がめぐり始める様子を描いたのが透G.R.A.D.なのかなと思いました(オタク特有の怪文書)。
そして波が立ち輝き始める、夜光虫のように……
という事で(?)今後の透のコミュが楽しみになるG.R.A.D.だった訳だが、【つづく、】を残念ながら引けていない。
助けて高山えも〜ん!
(おわり)